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2005年03月13日

阿部和重「馬小屋の乙女」

 KAIZUKA-DO FREE SOULさんのエントリに「あまりの難解さに、どう解釈していいのかすごい悩んでます」とあったのが気になっていて、阿部和重「馬小屋の乙女」を読むため『グランド・フィナーレ』を入手しました。

 素晴らしいじゃないですか!
 メジャーになって以来阿部和重の作品からも遠ざかっていた、というより文学そのものから縁遠くなっていたのですが、久々にグッとつかまれました。『グランド・フィナーレ』全収録作品の中でずば抜けています。この掌編のためだけに買っても惜しくないです。逆に表題作だけだったら損した気持ちになっていたでしょう。
 こういう「切断された感じ」は中原昌也にもあって、嗜好としてはこちらの方が好きなのですが、洗練されているのは阿部和重です。その辺のバランスの良さが、逆に彼の欠点であるとも思うのですが。

 何かが起こりかけて、何も起こらない物語です。起こりかけたところで終わってしまうからです。何かの前で終わる、という点では表題作も然りですが、重要なのはその何かが何だかわからないにも関わらず、状況を一気に意味づけるように見えることです。
 物語とは常に何かが起こるものです。起承転結というのは「良い物語」のお手本であるわけではなく、意味が決着した時点から遡行して一つの「意味を持つもの」を区切る、わたしたちの思考の様式そのものを示しています。ある事象の持つ意味は、「結」の時から遡行して初めて決定されます。一つ一つがバラバラに意味を主張するのではありません。
 ですが、世界とは実は物語のないものです。
 「普通の生活にはそうそう出来事などないものだ」ということではありません。そういう凡庸さも美しいものですが、現象として出来事があるかないかではなく、世界とは物語の向こうに手つかずに残っているものを指す、ということです。
 奇しくもKAIZUKAさんはこの物語の「解釈」を求めていましたが、ここで言う世界とは解釈の前に眠っていると想定されるものです。もちろん、そんなものはありはしません。「世界は常に既に解釈されているのだ」などと気取る必要はなく、決定的なことに、わたしたちは解釈ともの自体の見分けなどつかないからです。
 重要なのは、「見えの向こうにあるもの」という想定自体です。これは絶対者の想定というある種のエロティシズムに連なるのですが、表現しようとすると厄介な問題に突き当たります。世界そのものの物質的エロスを示そうとすると、物語の無さを物語で表すという矛盾と向き合わなければならないからです。物語がないこと自体を示そうとすると、それは物語の後か、物語の前になるしかありません。「馬小屋の乙女」では物語の前になります。
 これは「何かが起こるぞ」という予感のようなものです。木村敏がハイデガーをレファレンスにしながら分裂病者の世界をアンテ・フェストゥム(祭の前)と表現していますが、世界が沸き立ち「何かが来る」という手触りと圧倒的な不安が世界そのものを覆い尽くしてしまう体勢です(ムンクの「叫び」は何かが起こったことを示すのではなく、何も起こらず、ただ何かが起こりそうなままであることを表象しているでしょう)。
 何かが起こる前の世界には、これから起こる物語を暗示する様々な予兆だけがあります。予兆として読み込まれたもの一つ一つには意味はないでしょう。スキゾフレニック・パラノイアがこれらを結びつけ「赤い車だからCIAだ」と妄想を形成するのは、むしろ起こりそうで何も起こらないことに対する防衛であり、既に治癒の営みへと歩を進めているのです。
 「馬小屋の乙女」にもそうした予兆だけがあります。「しびれふぐ」、不眠、女子高生、タクシー、ヤクザ風の男、老婆と世話をやく男。これらはいかにも「伏線」風ですが、結局のところ何を示すのかはわからないままです。そして「ヘイ、トーマス!」の声と共に、世界が凝集し意味が完結するこれまた予感を残して、物語は終結してしまうのです。つまり、防衛直前の沸き立つ不安だけが残されるのです。
 重要なことは、これを単に「不条理」「実存」などといって何事かを説明できた気になってはいけない、ということです。そのような還元主義こそ、正に意味へ逃げることに他なりません。しびれふぐはしびれふぐでなければならなかったし、タクシーは絶対に時速30キロで向かって来なければならなかったのです。予兆が予兆のまま終わるとしても、タクシーが40キロで来たらこの物語は成立しないのです。
 ポストモダニストならこういう態度を否定神学的とでも言うのかもしれませんが、もったいぶっているわけではありません。また説明を放棄しているわけでもありません。敢えてポエジーをもって言うなら、「説明はまた来週!」なのです。


 手前味噌ですが、『ゴルバチョフ機関』収録の「CK」はちょっとテイストが似ています。ずっとベタで、今となってはあまり好きな作品ではないのですが、わかりやすいです。
 ちなみにアンテ・フェストゥム、イントラ・フェストゥム、ポスト・フェストゥムという術語でクレッチマー気質分類的精神病像を再解読していく木村敏『時間と自己』は名著です。これを薦める人は沢山いるでしょうし、今更書くこともないのですが、本当に面白いので是非手に取ってみて下さい。

『グランド・フィナーレ』 阿部和重 1,470円

関連記事:『インディヴィジュアル・プロジェクション』 阿部和重

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