寛容と理解を踏みにじれ
以前に「『偏見のない』人を偏見の目で見てみる」という内容を書いたことがありました(このエントリは既に別のブログに移植しています)。
こちらのブログにはその辺りの具体的事情については書かないことにしたので、一般的なこととして読んで頂きたいですが、わたしのある事情について知っている人に「ボクはそういう人に偏見とかないから」と言われた時の話です。アキバ系のあか抜けないお兄さんでした。
ふーん。偏見ないんですか。
わたしはアキバ系に偏見アリアリですけれどね。
要するに「偏見ないから」などと抜け抜けと口にする人間は、自分がされる側に回ることなど想像すらしていないのです。安全圏からさも「理解あるリベラル」を気取っているだけで、安いパフォーマンスを押し付けられる側はたまったものではありません。
昨日リベラルについてのことでちらっと書いたように、「いろんな人がいる」「人それぞれだからね」「そういう考え方もあるよね」などというのは、結局何も言っていないのであって、その人自身は状況に参加すらせず、徹底的に身を守っているだけです。
レズビアン/ゲイ・スタディーズの巨人デニス・アルトマンは、アイデンティティの否認の形態として、迫害(persecution)、差別(discrimination)と並んで寛容(tolerance)を挙げています。toleranceなどというと聞こえは良いですが、要は何一つacceptすることもなく(正確にはacceptanceを巡ってstruggleすることなく)、憐憫によって自らの無為にして蒙昧な地位にしがみついているのです。
ゲイと言えば、昨日Nくんとお話した時に「『ゲイの人は美的感覚が優れているから』とか言って褒めているつもりのバカには参るよね」という話題になりました。もちろん彼はこの表現ですぐにわかるのですが、世の中にはこう指摘しても目をぱちくりさせている白痴というのが、驚くべきことに実在します。レズビアン/ゲイであろうが、黒人だろうが、東北出身だろうが、美的感覚とこれらの要素が直結される訳もなければ、仮に内因的関係があっても還元してしまえば偏見に他なりません。それが良い要素であれば、ある意味一層の「オリエンタリズム」により、対象を他者化し、植民地化しているのです。目の不自由な人を優れた針灸師の候補とするのは、福祉とは言いません。
問題はこの先です。
何にせよ「あること」をプラスに評価することもできなければ、「偏見ないから」「差別していませんから」と言うこともできないとすれば、一体どう扱えば良いのでしょう。もちろん、「マイナス」に評価することはそのまま一般的な「差別」になります。
おそらく、最もラディカルにして唯一の解答は、「正しい選択を一切諦めること」です。
どのようなことであれ、スティグマ化される可能性のある「違い」に気づいてしまった瞬間、既にもうトラップから逃げる方法はないのです。何を選んでも手を汚さないではいられないのです。「正しい」ものを選ぼうとすれば、益々一層汚れた手を奇麗に飾り立てる虚偽を重ねることになるのです。
人は誰しも潜在的な「マイノリティ」です。痛みも決意も伴わない寛容を振りかざすことは、この当たり前の可能性に目をつぶることであり、「マジョリティ」などという存在すらしない幻想に逃げる方便に過ぎません。自分が「やられる側」だとすれば、悠々と寛容を気取る余裕などないはずです。
逆に言えば、「やられる側」が命を賭けて示す寛容こそが、真にこの名に値する唯一のものです。親兄弟を殺されてなお「ユダヤ人にもいいヤツはいるよな」と言えるアラブ人です。
大体、「理解あるリベラル」などというフレーズが既にちゃんちゃらおかしいのです。立場の違う人間のことをそうそう「理解」などできるものではありませんし、する必要もありません。世の中のほとんどは理解できないのが当たり前です。理解不可能なばかりか、目にするだけで不快であり、自らの存在すら脅かすものを前にしてこそ、寛容の真価が問われるのです。
「正当防衛」の名の下に犠牲にされるような寛容なら、初めから言わない方がずっとマシです。
確かに、このような超人的な勇気をすべての人に期待するわけにはいきません。
わたしたちにできるぎりぎりの選択とは、やはり「正しい選択を諦める」ことしかないでしょう。気づいてしまった己の不幸を嘆きながら、そこで否応もなく生じた罪と心中するのです。自らの悪辣を生き抜くのです。
これは「原罪」を負って望みもしないのに「気がついたらこの世にいた」わたしたちが、まったく身に覚えのない「既に生き始めてしまった責任」を負うことで「人間」認定を受けることと並行的です。
ある人物が、同じわたしの「事情」について、こんな言い方をしました。
「○○さんは随分そのことを気にするし、色々話すけれど、俺にとってはそんな過去のことなんて興味もないんだよ」
正確な文言は違ったかもしれませんが、ここでは彼個人のことを言いたいわけではないので、良しとして下さい。とにかく、暴力的なまでに「そんなこと知らんし」と切り捨てたわけです。
同じ「区別しない」効果をもたらすものでありながら、わたしにはこの態度のほうが遥かに潔く感じられ、信頼に足ると思いました。もちろん、ここで切り捨てられてしまった「事情」は、わたしにとってとても大切なもので、切り捨てが暴力であることは間違いありあせん。ただ、少なくとも彼は、自らのバイアスをこのような形で一つの悪に結実させることができたのです。
「正しい」選択が一切ない状況の中で、「悪から善を作る」には、このような一歩を踏み出すより他にありません。この発言が持つ行為としての効果について、彼はおそらく計算したりはしていなかったでしょう。そして人は常に「自分の言っていることがわかっていない」時にだけ、何がしかの有効な言説を紡ぎ出すことだできるのです。
念のために言っておきますが、「興味ない」「知らない」を突き通せば無罪放免になると思ったら大間違いです。そんなものは「寛容」の裏返しにすぎず、現実にある問題を不可視化する権力の言葉遊びそのままです。
重要なのは、ヘゲモニーに対していかなる関係性を結ぶにせよ、とにかく一つの立場を取り、傍若無人なまでに状況に乗り込んだ、ということです。「偏見ないから」と言うアキバ系の小僧と違い、彼はゲームに参加したのです。正確には、常に既に参加してしまっている罪を認めたのです。
今日、唯一有効なラディカリズムとは、スラヴォイ・ジジェクの言うように、一旦は「反対派」の言うことをすべて無批判に認めてしまうことです。「それは全体主義ではないのか?」「然り!」。
もちろん、これは開き直って終わり、ということではなく、この例えで言えば、ここからこそ初めて、なれ合いのゲームを越えて「全体主義という観念がいかに使われ、どう効果しているか」が語り得るようになるのです。
つまり、ここでの「認める」という行為は、「反対派」との対立軸、という偽の問題を突き崩す効果を持っています。二大政党制的フィクションの中で「選んでいる気分」に釣られる幻想を解体し、この幻想の構築に働いているダイナミズムを析出し参与していくことであり、「状況に参加してしまっている罪」の中に自ら身を投じて行くことなのです。
「偏見ない」? なに余裕かましてんのよ?
人間、誰だって自分が可愛いし、キショいヤツを見たら気分が悪いし、正当性があろうがなかろうが、ムカつくヤツは殴りたくもなるのが当たり前なのよ。肩が当たったってケンカはできるんだから、気取るんじゃないっつの。
人の心配する前に自分の心配した方がいいんじゃなーい?
まぁ、こんなことはまともな方々にとっては言わずもがなのことでしょうが、世の中にはどうも人間みたいなツラをして道を歩いている白痴がそこそこいるらしいので、定期的にこちらのブログにも書き付けておきます。
以上、ish☆新春スペシャルでした。
『全体主義 観念の(誤)使用について』
スラヴォイ・ジジェク 青土社 2,940円
序章だけ立ち読みでも良いので、手に取ってみて下さい。
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