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2004年11月16日

シャーリーズ・セロン『モンスター』

 久しぶりに見た映画が大ヒットでした。シャーリーズ・セロン主演による『モンスター』です。
 全米初の女性連続殺人犯アイリーン・ウォーノスの生涯を映画化したもので、娼婦アイリーンが酒場でセルビーという同性愛者の少女と出会い、激しく惹かれ合い徐々に引き返せない殺戮の泥沼にはまっていく物語です。
 「クライム・スリラー」などというコピーがついていますが、そんな安っぽいものではありません。ジェンダー/セクシュアリティという視点からも、強制的ヘテロセクシズム、ミソジニーとセックス・ワークの関係、さらにsocial classの問題など、色々考えさせられるところが多かったのですが、間違っても社会派のお説教くさい映画などではなく、これら諸系列が一つにまとめあげられているところに「作品」としての輝きがありました。
 以下、人によっては「ネタバレ」と取られかねない内容もあるので(そういう性質の映画ではないと思うのですが)、気になる方はご覧になってから読んで下さい。

 作品では致し方ない状況からアイリーンは最初の殺人を犯し、その後セルビーとの同性愛関係と対照となるように、客である男たちを次々と殺めていきます。彼らは彼女に生活の手段を提供してくれる「お客様」でもありますが、この契約を成り立たせているのは明白なミソジニー(女性嫌悪)です。男性の精神構造の中に深く打ち込まれた、女性を蔑視しながら同時にその「穢れた」女性に欲望を絡めとられてどうしようもない機制です(娼婦と母親の分離)。これは単に男性側だけの問題などではもちろんなく、娼婦アイリーンおいてこそ葛藤が明白になります。ミソジニーと言わば共生する形でビジネスを成り立たせていたのが、セルビーとの同性愛関係によりバランスが瓦解し、自らを犯し穢していく愚劣で横暴な男性のポジションがむき出しになってしまうのです。
 そしてついにセルビーに自分の犯罪がわかってしまった時、アイリーンは自己を正当化する言葉をはきます。「ヤツらは自分をレイプしたんだ、あんな薄汚れたヤツを殺して何が悪い、世の中には殺してもいいヤツがいるんだ」。
 これを単なる責任転嫁ととらえることは許されません。もしそう考えるとしたら、それこそミソジニーと強制的ヘテロセクシズムのトラップにはまり込んでいます。彼女の言葉には一抹の真理があるのです。彼女が沈み込んだ泥沼、それは明白にシステムによって作り出されたものです。しかもそこには、「男性」という主体を負う「加害者」が具体的に見出されるようにすら見えます。ラスコーリニコフの論理を彷彿するのはわたしだけではないでしょう。
 それでもなおやはり、彼女の罪は問われなければならないし、彼女はそれを言ってはいけませんでした。これは矛盾でしょうか。何が彼女の罪を証すのでしょうか。
 悪の論理、それは常に正しいものです。十万の為に一を殺めるstatementには一定の妥当性があります。そしてこれを否定する善の言葉は、往々にして「ダメなものはダメ」「命は大切」などといった、浪花節的に論理を飛躍する形をとってしまいます。どう考えても後者の方がvalidityに欠けています。ですから、手放しで「ダメなものはダメ」を支持することはできません。それでもなお彼女の言葉を否定するとしたら、わたしたちには何が残されているのでしょうか。
 「わたしは悪くない、わたしは良い人間なんだ」と彼女は自分に言い聞かせるようにつぶやきます。そうです、彼女は良い人間です。最後に殺したくない人間にまで引き金をひいてしまった時の涙には、それがよく表れています。しかしこれを「無知の涙」としてシステムに悪辣さを預けることはできません。システムと言うなら、被害者はそこに包摂されている人間全員です。買春する男性すら「被害者」です。
 彼女の罪は、正にこの正しさ自体にあるのです。正確には、statement(言明)としての彼女の「正しさ」は、根源悪としてのシステムを想定してしまっているがゆえに、システム自体を善とする言説と同様に間違っているのです。
 自らに語り聞かせる呟きという形がこれを証します。合わせ鏡の循環の中で、彼女の正義は確証されます。しかし結局、これはナルシシズムのトラップにすぎず、statementとしてはvalidでも、performance(行為)の次元では意味がズレていきます。そしてこれに気づいているからこそ、彼女は何度も同じ言葉を繰り返し、鏡の中を覗き込まないでいられないのです。
 ですが、performanceとしての次元なら彼女の罪は決定し、悪と善が逆転されるのでしょうか。司法制度という狭義のシステム表現形に限って言えば、妥当に見えます。しかしこれもまたシステムという他者の存在を信じる別種のナルシシズムに他なりません。大衆がスケープゴートをあげ、「わたしたち」という大文字の他者を確認してめでたしめでたし、というナイーヴな蒙昧主義が待っているだけです。
 これはシステムを悪とする(「世の中が悪いんだ!」)「責任転嫁」的態度の丁度裏返しです。アイリーンには呟きの中に自らの過ちをこぼす「自覚」があります。しかし「ダメなものはダメ」とする大衆は、その程度の洞察も含まないがゆえに、アイリーン以上に愚劣であり、「間違っている」のです。
 行為の次元で明らかになるのは、善悪の逆転ではなく、善悪の無さです。システムは悪でも善でもなく、さらに悪でも善でもない透明なものとして存在するのでもありません。それは端的に「無い」のです。アイリーンが愚かなのも、大衆がそれ以上に下劣なのも、何らかの形でその存在をassumeしてしまっているからです。
 本当にここで明らかになるべきだったのは、論理としての妥当性でも、超論理的な決定でもなく、論理内の妥当性が効力を持たず、かつ論理を超える正義も存在しない、という茫漠たる不安です。もちろん、この不安は直視できません。彼女は極刑に処せられ、大衆は大文字の他者を確認して世界は平和になります。「王様は裸だ!」と叫んだ少年は王国には住めません。
 ですが、映画の終幕、最後の最後になってもアイリーンは裁判官に呪詛の言葉を投げつけます。「レイプされた女を死刑にするのか!」。この悪あがき、往生際の悪さにこそ、決定不可能な不安がむき出しになります。
 「誰も悪くないさ」などとうそぶく態度は、彼岸を気取りながら結局弱者にツケをまわす権力の言葉遊びにすぎません。誰が悪いのか、誰かが悪いのか、それすらもわからない、システムの無さそれ自体、「わたしたち」という大文字の他者のフィクション性こそが核心なのです。最後の罵声においてこそ、善悪はもう一度逆転し、真理はアイリーンに宿ります。もちろん、この真理の光を直視したものは、太陽に目を向けた者のように視力を奪われ、死よりほかに行き先を持ちません。

 「何であれ悪いものは一応捕まって処せられる」というハリウッド映画の形式(システムの確認)をクリアしながら、同時にアンティゴネー的な「自殺行為」の輝きを収めているところに、この作品の凄みはあるのでしょう。

「きみは悪から善を作るべきだ、それ以外に方法はないのだから」(ロバート・P・ウォーレン)


モンスター 通常版 DVD 3,192円

『シリアル・キラー アイリーン「モンスター」と呼ばれた女』 4,935円
『モンスター』のモデルとなった全米初の女性連続殺人犯アイリーン・ウォーノスの逮捕から2002年10月9日の死刑執行までを追ったドキュメンタリー。

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