国立と立川の区別 吝嗇なる肛門的知性
先日、京都にいた時のドラマーのお友達がライブをするということで、週末でもないのに仕事帰りに国立まで行ってきました。
いきなり全然関係ない話ですが、よく国立と立川がわからなくなります。大きいのが立川、一橋大学があるのは国立。TOEIC講師の面接に行って落ちたのが立川。郵便局で一日クレジットカードの加入促進をやったのが国立。そうやってしっかり確認しないと、どっちがどっちだか混乱してきます。この日も電車に乗った後で思い出せなくなったのですが、幸い手帳にメモがあったのでムダに一駅行き過ぎないで済みました。
さらに関係ない子供みたいなネタですが、「国立」という文字は「こくりつ」のようで、じっと見ていると不思議になります。「こくりつだから一橋がある、のどかで奇麗な街」と覚えています。逆に国立国会図書館や国立天文台を「くにたち」だと思うとほんにゃらしてきます。国立なのに国会。国立なのに天文台。いや、天文台には悪くないロケーションでしょうけれど。
というわけで、久々に学生ワールドに浸ってみました。今の生活は一時期に比べて実に穏やかなのですが、それと比較してもあまりに時代錯誤なノリに愕然としてしまいました。
たまにはこういう時間も良いものではあります。古い友達と会えたのはすごく嬉しかったですし、こういう場にちゃんと疑問を抱きつつも人のサポートでタイコを叩きに東京まで来てしまう彼という人間には興味があります。
ただ、以前わたしが囲まれていた「左翼くさい学生ノリ、そのノリのまま歳をとってしまった酔っぱらいオヤジ」には、やはり辟易します。というより、辟易していたということを久しぶりに思い出しました。
青臭い「正しさ」への憧憬については、まったく人のことを言えないくらい毒されています。世間の標準からすれば異常なほどでしょう。ただ同時に、これに対する疑問もあります。
インテリ左翼、学生、アカデミズム、運動系、これらに通底しているのは、何かトータルで収支の会う世界像のようなものです。非常に抽象的な言い方になってしまい恐縮なのですが、統計などで表象される世界がその例です。統計というのは単に世界の一部を切り取って数値化してみただけの遊戯のようなものですが、少なくともそのパラメータについて「全体」を認識できたような錯覚を産み出します。知性的なものの弱さは、「全体」への憧憬そのものです。
全体は常に見えないのです。さらに言えば、想定することすら滑稽です。今は一部しかわからないけれどいずれは全体がわかる、あるいは、部分しか認識し得ないが全体というものが存在する、というのは、いずれも絶対的な第三者への期待を言い換えたものです。社会的なもので考えれば、責任や因果の連鎖といったものがきちんとつながるべき、という想定に連なります。
何度か書いていますが、責任というのは取りきれないから責任なのです。取れもしない責任を抱える無責任さ、というのが、世界に向かって行く時には必要なのです。それを後づけでどうこう言ったり、あたかも全体が見える「美しい魂」(ヘーゲル)であるかのように批評するのは、無責任でいる責任を果たさない態度です。
別の言い方をすれば肛門的、ということです。要は吝嗇なのです。彼らが侮蔑するものは、確かに愚かです。しかし愚かのはどちらも一緒であって、その中でどちらを選ぶかなら、やはり無責任でいる責任と心中する方です。判断に迷ったらお金のある方に行けば正解です。
お金というのは流れるから意味のあるもので、流れの中にいれば自然と入ってくるものです(なのだそうです笑)。逆に言えば自ら流す、使う、という「気前の良さ」「果敢さ」がなければ入っても来ないでしょう。肛門的な人間の恐れているものは、流れに入って流されてしまうことです。水洗トイレに吸い込まれてしまうのが恐ろしいから、溲瓶に貯めて酔っぱらってお茶を濁しているのです。
なんだか例によって極論になりましたが、この日国立で考えていたのはそんなことでした。
理科年表 (第78冊(平成17年)) 国立天文台 丸善 1,470円
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