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2005年02月26日

決めてもらうこと、決めること、知っていると想定される主体

 ソーシャルワーカーをやっている友人とのメールのやりとりで、「人に決めてもらう」とう話題になりました。
 わたしは何かにハマると病的な速度で取り込んでいってしまう人で、自発的な人間だと思われることがあるのですが、実は何かに「ハメてもらう」感じ、他律的な要素が非常に大きい、という流れでした。

誰かに決めてもらったら生きるのがすごく楽だと僕もとても思います。 また診療所に相談に来る人達と接してると身にしみるように感じます。 彼ら彼女らは相談と言いつつ決めてもらいたがってるんですもの。明らかに。 夫の浮気借金ギャンブル風俗の遍歴を延々と述べたあげく 「どうしましょう?」って言われても。「別れろ」としか言えないじゃん。 でも言わないんです。責任取るの嫌だから。 「どうしたいんですか?」って質問返しです。テメエで決めろって返すんです。 意地悪な仕事ですよほんと。

 カウンセラーにせよワーカーにせよ、ここで決めてあげてしまうのは最悪の選択であり、あまり親身になりすぎてしまうのも危険です。ラカン流に言うなら「想像的」合わせ鏡地獄に陥りかねません。
 カウンセラーとは子供の「今日の一日報告」を聞く係です。お母さんは大抵夕飯の支度をしながら、正面を向き合うこともなく聞き流します(寝椅子の関係の逆転)。ここで目と目をみつめあって対峙してしまったり、あまりに真剣に聞いてしまったら、かえって子供は流れるままに語ることができなくなってしまうでしょう。また、本当にまったく聞いていないのでも困ります。話半分くらいで「ふーん、そうなの、頑張ったわねぇ」が丁度です。話しているうちに話している側に気付きが訪れることが一番重要なのです。
 精神分析の現場において発生する分析家とクライアントの関係には、転移という「過去の経験の写し」のような強い感情的つながりがありますが、ここで分析家に期待されるものに、ラカンは「知っていると想定される主体」sujet supposé savoirという非常に明快な表現を与えています。クライアント(神経症者、つまり普通の人)は「何か自分に関する重大なことで、かつ自分にはよくわからないもの」を抱えています。それは自分にはわからないけれど、誰かが知っているものです。「わたしについて、わたし以上に知っている人」と想定されるのが、「知っていると想定される主体」であり、転移の対象です。
 よく考えてみると、このような関係性自体は分析の現場や診療所に限られたものではなく、例えば強い師弟関係、恋愛関係などでは常にこのような現象が起こっています。医師と患者の間には、精神科に限らず伝統的にこういう関係が期待されています(これがパターナリズムであるとして批判の対象にもなっているのですが)。良いとか悪いとかではなく、わたしたちの感情生活には常にそういう力動が働いている、ということです。
 この究極の形が神様でしょう。誰一人知っていなくても、神様だけは知っているのです。誰にもバレない犯罪でも、神様はお見通しです。隠し事もできません。これは狭義の倫理的水準だけの問題ではなく、例えば「森の奥で大木の倒れる音」が存在するかどうか、といった認識論的問題にも関わります。この時「音はする」というのがわたしたちの「普通の認識」ですが、論理的にこれを立証することはできません。独我論は常に「正しい」のです。それを超えてなおわたしたちが世界を信じられるのは、「少なくとも一人は知っている人がいる」という想定があるからです。カーブの向こうも道が続いていると思えるのは、暗黙のうちに神様を信じているからです。この「平穏な世界」のリアリティが壊れる離人症的症状(風景が書き割りのように現実感を失う症状)は、ある意味「神を見失った」状態と言えるでしょう。
 ですから、誰かが知っていると想定してしまうこと自体は避けられません。「わたしのことをわたし以上に」という関係がこの世からなくなることはありません。そういう「絶対者」「先生」に決めてもらいたい、という気持ちは、別段診療所に通う人だけではなく、誰にでもあるものでしょう。
 ですが、ここで本当に「先生」が決めてあげてしまったりすることはあってはなりません。カウンセラーはお金をもらって話を聞いてあげているだけです。クライアントが気付くべきことは、要するに「自分で決めるしかない」ということですが、これは世間的な意味での安い「主体性」を称揚することではありません。
 なぜなら、最初に問題になった「わたしに関する重要なことで、わたしにはよくわからないこと」は、依然としてよくわからないままだからです。そしてそれを知っているのは、やはり「わたし」ではないのです。これが非常に重要なポイントです。
 この点を見逃して「自分のことは自分がよく知っていて当たり前」なパラダイムに帰ってしまっては、特殊西洋近代的な「独立した個人」というフィクションの釈迦の掌です。そんな安いスキーマでは、人間の主体性、感情生活、そして愛について、百に一つも理解することはできません。
 何にせよ、よくわからないことで、よく知っている人が別にいることを自分で決める、などということは不条理なのです。「本当」ならば、やっぱり神様や先生が決めるべきなのです。なぜなら、わたしたちは望んでこの世にやって来た訳ではなく、誰かに導かれて受動的に放り込まれただけだからです。わたしたちが漠然と「自分のこと」と感じているものも、元を辿れば自分で決めたわけではありません。赤い色が好きな人がいたとして、赤が好きなのは確かに彼女ですが、彼女が赤を好きになったのは彼女の決めたことではないですし、赤の好きな人間として彼女を作り出した(作り上げた)のも彼女ではありません。欲望するのは「わたし」であったとしても、欲望を欲望したのは「わたし」ではありません。
 そんな風に一方的に割り当てられた「主体」において、よくわかりもしないことを決断しなければならない、というのは、納得いかない方が当然なのです。ヒステリー者の問いは常に「正しい」のです。そして確かに、神様ならばきっと知っているはずなのです。神様というのが飛躍的すぎるなら、「社会」という(実は神様以上に曖昧な)言葉で置き換えても良いでしょう。「こんな自分にした」「社会」のせいなのですから「社会」が責任をもって決めたら良いのです。
 ですが、そうはいきません。どういうことでしょうか。
 わたしたちがこうなってしまったのは、わたしたちのせいではありません。わたしたちが欲望するのは、わたしたちのせいではありません。決めなければならないのも、わたしたちのせいではありません。でも、決めなければなりません。決めて、責任を持たなければなりません。そして責任とは、正にこの不条理の中にしか生まれないものであって、主体性とは、この語の世間的な響きとは裏腹に、「割り当てられたものに隷属する」ことにこそ本質があります。そして「決めてもらいたい」という願望を実現する唯一の方法は、逆説的にも、「決める自分」という服従者として絶対的第三者の元に身を預けることなのです。
 「責任のとれないことを言うな」などと言いますが、責任というのはそもそも取って取りきれるものではありません。まるで責任のないことについてなぜか負わなければならないものこそ、責任なのです。責任とは、その根拠のなさにこそ核心があります。「責任者」が責任を取るのは、本当にその人に責任があるわけではなく(あるわけがない)、単にその人が「責任者」だからです。
 最初に感じた疑問、「なぜわたしのせいなのか」「決めて欲しい」「わからない」は、まったく正当なものです。これを否定してしまう通念的な「責任論」ほど愚劣なものはありません。ですが、その正当性にも関わらず、わたしたちは鉛筆を転がしてでも決めざるを得ないのです。それは単に「自分のことは自分で決める」などという安い道徳律に寄るのではなく、これこそが「教えてもらう」唯一の方法だからです。
 神様は何でも知っています。ただ教えてはくれません。
 大友克弘の『気分はもう戦争』にこんな台詞があります。
「神様は何も言わないよ……言わなくなって、何年にもなる。」
 これこそが、真の信仰者の姿です。信じることは、答えを求めながらも、不完全な答えを自ら決定し続け、決定した言葉と心中することで、逆説的にも神様にすべてを預けてしまうことです。その言葉を待ち、一つ一つの「善行」を捧げたりするのではなく、「語る者」として自らの存在全体を委ねることです。つまり、それほど神様を信じていない者らしく、ほどほどにエゴイスティックに普通に生きることです。

 フェミニズムの文脈には「社会構築主義対本質主義」という伝統的な問題があります。社会的ジェンダーは純粋に社会的に決定されたものなのか、それとも生物学的な根を持つものなのか、といった議論です。レズビアン/ゲイ・スタディーズでも取りざたされることで、例えば「ゲイ遺伝子」探し、といったゲームで問題にされます。ナイーヴな遺伝子還元論が幅をきかせている今日にあっては、再認の必要な議論ではあります。
 ですが、本当に大事なことは「何が決めているか」ではありません。勝手に割り当てられたもの、それを割り当てたのが社会だろうが遺伝子だろうが神様だろうが、そんなものは大きな問題ではありません。 
 ある人がレズビアンで、それがレズビアン遺伝子に起因するとしましょう。だから何なのでしょうか?
 その人が自分がレズビアンであることとどう向き合うか、社会とどう関係するか、それらは一切「決定者」が誰であるかなどとは関係ありません。決める謂れもないことを、根拠不十分なまま彼女自身が言葉にする、それだけが重要なのです。

『精神分析の四基本概念』 ジャック・ラカン 5,250円
ラカンを読むのは決して楽な作業ではなく、またかなり危険な行為でもあるのですが、それでも関心のある方には、このセミネール11巻をお勧めします。奇跡的に平易で、翻訳も素晴らしいです。美しいです。エロいです。

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Comments

以前S.ジジェクを辿っていたら、ここにたどり着きました。
武道、サブカル、思想と自分にヒットするキーワードが並んでおり、それ以来リピートしています。
 
>自分がレズビアンであることとどう向き合うか、社会とどう関係するかそれらはいっさい「決定者」が誰であるかなどとは関係ありません。決める謂れのないことを、根拠不十分なまま彼女自身が言葉にする、それだけが重要なのです。

自分はゲイではないですが、なるほどと思いました。
自分は、この文章を、レズビアンやゲイだけに当てはまるものではなく、あらゆる人たちに当てはまるものとして読みました。
というのは、人間は根拠不在のまま世界に放り出されてるのであり、そうした意味においては、「決定者」が不在のまま自分とどう向き合うとか社会とどう関係するかということは、ゲイとそうでない人で、それほど違いは無いのではないかと思うからです。(ストレートの傲慢な意見かもしれませんが・・)
「決める謂れのないことを、根拠不十分なまま彼女自身が言葉にする、それだけが重要なのです。」このフレーズたいへん印象に残りました。石倉さんように、自身がどれだけ力強い言葉を紡ぎだせるかということが大切なんだと思いました。


Posted by: M.T at 2005年02月28日 01:23

コメントありがとうございます。
>自分は、この文章を、レズビアンやゲイだけに当てはまるものではなく、あらゆる人たちに当てはまるものとして読みました。
まったくその通りです。そういうものとして書いていますし、そういうものでなければ意味がないと思います。
>ストレートの傲慢な意見
これは余計でしょう。「ストレートが言うと傲慢な意見になりかねない」という遠慮こそ僭越です。誰も安全圏になどいないのです。
http://ish.relove.org/mt/archives/000931.html
を参照してみてください。
 また、セクシュアリティ自体について言えば、レズビアン/ゲイとヘテロセクシュアルというのは、「種族」か何かのように切り分けられるものではなく、ある時期の運動にとって有効な枠組みであったことはまぎれもない事実にせよ、かえってフィクショナルな分断線を強調してしまう危険があります。フーコーも指摘していますが、人間のセクシュアリティを「相手の性別」によって大別し、しかも固定化する、というのは、すでに強制的ヘテロセクシズムの釈迦の掌です。実際問題、週末ごとに女と寝ている「ヘテロ」自認の女などいくらでもいますし、それをどう認識しようが彼女自身の勝手です。
 違いはあるのだろうけれど、それが何だかわからない、わからないながらもウソの線を引いて行動し、そのウソに著名を付す、というところが重要なのだと思っています。
 

Posted by: at 2005年02月28日 22:08
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