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2005年02月16日

シーフードのスープ ストイシズムは弱さの証

 「O型ベジタリアンは血液型ダイエット0点」のような事情に早速影響を受けて、シーフードのスープを作ってみました。
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 肉はどうしても受け入れ難く、魚介類も油っこいものはキツいので、イカやタコなどが中心です。まぁ、ダイエット的には大豆製品より余程低カロリーではあります。
 動物性タンパク質を摂ると、妙に気持ちが明るくなります。逆に言うと、ただでさえも落ち着きがないのに、気分が動揺するのであまりよろしくないのです。
 これは生理的効果というより、「うわぁ、動物食べちゃった」という感じから来るのではないかと思います。日頃当たり前に肉を食べたりしている人にはわからないかもしれませんが、「もうこうなったら約束事など何もない」というヤケクソでアナーキー、裏を返せば何の支えもないよるべない寂しい気持ちになるのです。
 別段動物愛護的な観点から言っているのではありません。「ビタミンDとビタミンB12の豊富な植物食品 食の倒錯的快楽」でも書きましたが、どうせ食べるなら祝祭的に自分の手で殺したい、くらいに考えています。
 そうではなく、「食べてはならない」というルールがあること自体が重要なのです。ヴィーガン的に「動物性タンパクは消化にエネルギーを要するので害毒」「穀物資源のムダ使い」などというのは、一つ一つは仮に事実だとしても、事の本質ではありません。生物・生理学的還元によって、背景で働いている心的力動を合理化しているだけです。
 ヴィーガン、動物愛護、環境保護から宗教、学習への熱意、日々の倫理観、ヘテロセクシズム、モノガミズムまで広義のストイシズムにすべからく言えることですが、結局のところ「これはダメ」というルールで自分を縛っておくことだけが大事なのです。
 「神がいなかったらすべてが許される」「神がいなければ許されるものは何もなくなる」という議論があったのは『カラマーゾフの兄弟』だったと思いますが、許されないものがあるからこそ、許されるものがあるのです。許可されるためには、少なくとも「許可される/されない」枠組みが必要であり、それが許可されていること以上に、この分節構造を支える絶対的第三者がなくてはならないのです。
 その禁忌を破ることは、一瞬は恍惚を生むのですが、しばらく経つと「許されるものは何もない」という対極に帰っていくことになります。紅白神経症的肛門性格の人間は、皆それを恐れているのです。
 ですが、本当は、「許可される/されない」などというものは何もないのです。真の勇気とは、自分で自分を根拠も正当性もなく暴力的に許可することです。何の支えがなくても、「わたしは食べる! これを行う!」と宣言し、すべてを引き受けて自爆することです。

 そのような行為の美しさはわかってはいるつもりなのですが、市井を生きる小人の一人としては、やっぱり食べ物くらい制限しておきたいのですよね……。
 弱虫で恥ずかしいです。でも食べます。

『シーフードベジタリアン』安岡博之 ヴォヴィス 1,575円

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