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2004年05月16日

『ジョン・C・リリィ生涯を語る』マッドサイエンティストの自伝

 縁あって、久々にブッ飛んだヒトの本を読みました。

johnlilly.jpg『ジョン・C・リリィ生涯を語る』ちくま学芸文庫

 表紙から既に飛ばし過ぎで、色々な意味で素敵な予感がします。

 ジョン・C・リリィは少年時代より学術的才覚を発揮し、脳内の報酬系の研究などで「ノーベル賞は確実」とも言われた科学者です。しかし「リアリティ」の探究という目標に向かって、アイソレーションタンク(比重の高い液体を満たした、知覚遮断タンク)、イルカとのコミュニケーション研究、LSDによる感覚の拡大、といったオカルト的方向にスパークしていき、ある種「教祖」的地位に登り詰めた方です。映画『アルタード・ステイツ』『ブレインストーム』のモデルとしても知られています。
 この本はそのリリィ博士自身が時系列で記した自伝です。今読むと時代の空気、「ニューエイジな西海岸」という「昔の未来」な匂いがたまらない一冊です。
 実は個人的に中学高校時代コリン・ウィルソンに熱狂していたという恥ずかしい過去があり(主著『オカルト』、最近では『ネクロノミコン』が有名ですが、小説『賢者の石』が一番のお勧め)、オカルトっぽいものには近親憎悪のような警戒感を持っています。ハマりやすい性格、「自信たっぷりに語ったことが丸っきり間違っていた、しかも何度も」な自分史があるからです。とりわけ、わたしくらいの世代は、60年代70年代をリアルに生きた上の人々と違い、熱いスピリチュアルワールドにイヤでも自動的にツッコミを入れてしまうクセがついています。今の若い子が荒俣宏とか大マジで読んでいたらちょっとヤバいでしょう。
 かといって、単に「科学万能に対するカウンターカルチャー」という紋切り的視点で「痛い時代」を振り返るというのも、シニカルに過ぎるというものです。彼らの提起した問題系、気になって仕方がなかった切り口というものは、消えてなくなってしまったわけではないからです。それなのに、冷笑的に捨て去ってしまうか、一部の社会不適応な人々がカルトにハマるか、という二極文化をするだけでは、前の世代をちっとも笑えません。
 少し真面目な話をすれば、「透明な観察者」というフィクションの元に構築される「体系としての科学」には、常にメタレベルについての議論が逆流せざるを得ないという宿命がつきまとっています。世界内における目的論を排除することにより、世界そのものについての目的が保存されてしまう、という構造です。ヴィトゲンシュタインが鮮烈に切り込んでいったのもこの「外部」の問題です。卑近な話なら、自然科学者の一般向け著書では、最後の一章で語られている彼の「哲学」が恐ろしくナイーヴだったりする、というよくある現象です。内部についての精緻で整合的な議論がありながら、それを包括する次元になると、途端に思考停止しているのです。
 ただ単に専門バカを批判しているのではありません。世の風潮として「スペシャリスト」なるものがもてはやされているのも同根です。「スキルアップ」「勝ち組」だのといった狭隘な評価を丸ごと信じたりしていると、どこかで決定的に転ぶハメに陥ります。もちろん職能として機能することは大切ですが、それが総べてだと思ったり、そこ以外の自身の価値が「スキル」から完全に分離できると考えたら、人生ナメすぎているということです。オウムにどんな人が集まったのか、思い出して下さい。
 確かに、総合的なものの見方には、結局何も積み上げられず、実質のあることを語れない、というトラップがつきものです。リリィ博士についても「個人的体験の拡大解釈と暴走」として切り捨ててしまうことは容易でしょう。実際、大方の見方というのはその程度で、この切り捨ての補完として盲目的信者が産み出される、という実に蒙昧な構図が再生されるのです。この愚を繰り返さないためにも、可能な限り踏ん張って、汲み上げられるものを考えないといけません。
 非常に面白いのは、彼が個別体験を重視する一方で、そこから産み出された様々なプロジェクトを、意外とアッサリ棄ててしまっているところです。イルカに飽きたらLSD、といった調子で、変わり身が早いのです。しかも次は次で「これこそ宇宙の真理だ!」くらいの勢いで猛烈に入れ込んでいます。さらに言えば、これらの浮気人生をまとめた本書でも、自分の矛盾には別段ツッコんでいないのです。
 ものすごいボケぶりです。
 このことは恋愛にも当てはまります。「恋は盲目」と言われる通り、恋愛というのは「客観的」視点が疎かになることで成り立つものです。あんまり冷静だと恋などできません。そして熱狂的な恋でも、いつかは冷めるもので、さらに冷めても次の恋が待っていたりするのです。人生、勘違いの連続です。
 リリィ博士は自分の性愛体験を実に赤裸々と語っているのですが、一々「運命の人」のように盛り上がった末、「やっぱり違った」とアッサリ見限っています。しかも本の末尾になって「普通は十代で学ぶことに七十代でやっと気付いた」として、こんな風に振り返っているのです。

彼は(リリィ博士自身のこと)、ある特定のひと、通常、女性に対し、のぼせあがる癖があるのが分かった。女性の、ごく部分的な特徴に夢中になり、完璧な存在として過大評価し、その女性がどんなに不相応でも、完璧な連れ合いのなかに求めているものを、彼女の上に投影してしまう。

 気付くの遅すぎです。七十すぎのセリフではありません。
 熱く燃えながらも、ちゃんと冷めて、すぐに浮気する。このボケぶり、勝手ぶりの精神が、リリィ博士をただのオカルトオヤジから分け隔てているように見えます。オカルト・ニューエイジ的世界では、一度ハマったものにパラノイア的に潜航していくのが普通です。この熱狂は、オカルトに限らずものごとを演繹的に探究していく上で必須のものではありますが、同時に単なる妄想スパークとも紙一重です。それを救うのが「浮気癖」「飽きっぽさ」です。しかも自信満々で撤回するのです。確信を持って飽きるのです。前言も堂々と翻すと、周囲にはもっともらしく見えたりするものです。
 科学的思考についても、記述的には「冷静かつ客観的」に見えたとしても、実際の探究に向かわせる衝拍には恋愛のような盲目的熱狂があることでしょう。そうでなければ、寝食も忘れて研究に打ち込んだりできるはずがありません。その結果や上澄みの部分だけを見て、「透明な観察者」による解釈だけがあるなどと考えたら、逆説的にも「科学の本質」を見失うことになるでしょう。本質を排除することで本質は成立し、そこで失われたものを求める幻想がディスクールを形成するのです(抹消された主体と対象a!)。
 リリィ博士を唾棄したり、あるいは一方的にツッコむだけなのは簡単です。一通りツッコんで愛してあげた上で、自分にもツッコミを入れて初めて一歩です。ツッコミは愛ですから、シニカルにならず、皮肉りながらも遂行的次元で自らの語らいを変容させることができなければなりません。
 この「行動のフィードバック」とも言える審級は、「僕の身体が僕の実験室だ」というモットーのもと、自分の脳みそに電極を打ち込んだり、自らLSDをキメてタンクに入ったり、という、リリィ博士の突撃精神にこそ現れています。研究結果の評価だの、ましてその「正しさ」などというものは、所詮は時代の産物で、今が否でも一周回って是となることもあるものです。大事なのはとりあえず自らすすんでバカをやってみることです。

「実験しなさい、命がけで、愛をこめて」(リリィ博士72年のメモから)


 実は翻訳者の方が知り合いで頂戴してしまったのですが、そんな個人的縁から言うと、訳者あとがきに注目して欲しいです。「教祖」的になってしまった晩年のリリィ博士に、かなりとんでもない質問をぶつけています。訳者の人柄が現れていて、思わず微笑んでしまいました。この人も「自分では真剣なつもりの姿勢がハタから見るとボケている」愛すべき祝福された人物です。

 なお、こちらにアイソレーションタンクを実際に体験できる所があります。

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