『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』ジョルジョ・アガンベン
たまには真面目に本の紹介をしてみます。
『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』
ジョルジョ・アガンベン著 高桑和巳訳 以文社
ホモ・サケル(homo sacer 聖なる人間)というのは、古代ローマにおいてある種の犯罪者をさして使われた言葉です。その者は殺害しても罪に問われず、なおかつ生贄にすることを禁じられていました。犠牲化不可能であるにも関わらず殺害可能であるような生、それがホモ・サケルです。
ホモ・サケルは法の限界において立ち現れる限界概念であり、生の例外状態をさすものです。殺害可能である以上まぎれもなく「生」であると同時に、その殺害は法の枠組みの内部では処理されません。つまり、法自体を成り立たせている境位において宣言されるものです。
同種の系譜に連なるものとして、強制収容所のユダヤ人、難民といったことを考えることができるでしょう。しかし、間違っても「ユダヤ人や難民も同じ『人間』だ、彼らの『人権』を守れ」などというナイーヴなことを訴えているのではありません。
例外状態において決定を下すものが、主権者と呼ばれます(カール・シュミット)。法の枠を越え、法自体について言及することができる者が、主権者なのです。社会科の時間に「国民主権」というのを習いましたが、「民主主義」では主権者とは国民です。つまり、わたしたちです。
ホモ・サケルとは、「わたしたち」にあらざる者が「わたしたち」とは別に存在するということでしょうか。そうではありません。
一番わかりやすいのは脳死の例でしょう。脳死者とは、現代のホモ・サケルです。脳死状態にある人間は、生きているようでありながら「死んでいる」という、絶対矛盾にあります。彼らは「生きている」からこそ臓器移植の提供者となれるわけですが、同時に「死んでいる」から切り刻んでも罪にはなりません。実に中ぶらりんな無気味な存在なのです。そして脳死者になる可能性は、わたしたちの誰もが持っているものです。
重要なことは、脳死の認定とこれによる臓器提供は、紛れもなくわたしたち自身のためのものだ、ということです。主権者がわたしたちなら、例外とされるのもわたしたちなのです。わたしたちはすべからく既に難民なのです。
わたしたちの社会は、主権者=国民の生命財産等を守るために、わたしたち自身を管理するようにできています。これを「国家への権力の委譲」と考えることもできますが、委譲されていない権力などというものは存在しないのです。「弱々しく相互対立的闘争を繰り返すだけの人間たち」が「国家という人工物」を作り上げたというのはホッブスの神話ですが、正にこれは神話としての構造的射程のみを備えるものです。フロイトの原父殺害と同様に読まれるべきです。
それゆえに、「国家からの権力の奪回」などという田舎のヤンキーのような発想は釈迦の掌なのは言わずもがなです。しかし同時に、この状況に宙づりにされたままであることがわたしたちに許可されているかというと、ことはそう単純でもないのです。
見るべきは、「わたしたち」と「わたし−たち」の間に空いた裂け目です。「元々は自分たちのためのものだったはずなのに、いつからこんなことになってしまったのか」。そういう形で問いを立て闘うとしたら、実に市民運動的です。そのようなactionが何ら価値を持たないとは思いませんが、結局はスペクタルの一項となり、権力の内部へと回収されるのは目に見えています。
「わたし−たち」が「わたしたち」へと摺り替えられるのではなく、「わたしたち」が先立つのです。「わたし」は常に、「わたし−たち」の一つとして事後的に成立するものです。子供が常に、後に「わたしたち」になるであろう大人たちの間に産み出され、それから「わたし」として語り出すように。
「わたし」が集まって「わたし−たち」になり、そして「わたしたち」が形成せれるのではありません。初めに「わたしたち」があり、そこに「わたし」が投げ込まれ、最後に「わたし−たち」があるのです。裂け目とは、この時間差のような空隙に他なりません。
だから、裂け目は埋まりません。「元々はわたしたちのためのものだったのだから、個々人の利益を取り戻そう」と言ったところで、「わたしたち」と「わたし−たち」は初めから分裂しているのです。「わたし」たち一人一人が産み出される限りにおいて、最初に刻まれた傷なのです。市民運動的スタンスの最大の欠陥は、この傷に目を瞑るところにあります。
一方で、宙づりの幸福を楽しむことに対するどこか後ろめたい気持ち、これは何でしょう。社会が宙づりを求めていて、なおかつそれこそが最も安寧に生きる方法であるにも関わらず、なぜここに背徳があるのでしょうか。
宙づりの幸福は永遠ではないからです。生き長らえる方法をいかに模索したところで、わたしたちの生は有限なのです。にも関わらず一定の幸福を享受できるのは、わたしたちが「名」を持ち、「わたしたち」という他者の中に書き込まれているからです。「わたし」という個人でありながら同時に「わたしたち」という無名の群れ、多数派、「世論」の欲望を内に持っているからです。つまり、一人の死者として生きているからです。
幸福とは、pleasure principleに沿うものです。これが守られるのは、わたしたちが欲望に身を焼かれない限りにおいてです。「欲望とは<他者>の欲望である」というのはラカンのテーゼですが、その意味の一つは、「わたしの欲望」と言いながら、それは常に「わたしたち=無名の多数者の欲望」だということです。プライベートな欲望など存在しないのです。そしてこの欲望に対して忠実でない限りにおいて、わたしたちは「わたしたち」に完全に一体化し最終的な死を迎えることから身を守り、個人であるような幻想に揺られていることができるのです。
宙づりが許されないというのは、わたしたちの誰もが死を約束されているということです。そして後ろめたさとは、欲望から遠ざかり幸福へと逃亡することから来るのです。それゆえに、「わたしたちのわたしたちによる管理」という状況に対する唯一の「闘争手段」は、逆説的にも「わたしたち」の欲望から譲らないことなのです。
このことから、いわゆる「自爆テロ」を想起してしまうのはわたしだけではないでしょう。自爆しているのは「わたしたち」です。
「民主主義か原理主義か」といった、今日わたしたちに突き付けられている選択肢は、いわば「金か命か」といったナンセンスな問いに等しいものです(ジジェク)。ここには何ら選択の余地などないのであって、「選択した」というアリバイ、「百万人著名」のような空漠なサインのリストだけが醸成されるのです。
ここで言われている「原理主義」とは、既に「民主主義」の一部です。ただ「わたしたち」が選択し、そして自爆しているのです。
まったく余談ですが、この本の訳者の高桑和巳さんは、中学高校時代のバンド仲間なのです。今でも交友を保っている一番古い友人かもしれません。アガンベンについては、別の翻訳者がわたしが最初に撮った自主映画の音楽担当者だったりと、妙に縁が深いです。